2012年08月31日(金)

校正は嫌いだ、とぼやく編集者の話

ぼくは、文章を書き終わって、文章を読み直すと、無限に書き直したくなるという悪癖がある。悪癖というより、「こんな下手な文章をだれが書いたんだ?親の顔をみたい」という正当な評価なのだ(親のせいとばかりはいえないところがある)。

まして、自分の文章がゲラになって出てくると、「なんという紙のムダ、ええい、ちり紙にしてくれるわ」という気持ちを抑えながら、校正している。だから自分の文章を校正しているときは、ほとんど拷問状態で、背中を搔こうと思っても、なぜか甲羅をしょっている感じなのだ。ちなみに、カメは背中をかきたいと思わないんだろうか。背中をかきたいときは、岩か何かに甲羅をこすりつけているんだろうか。
 いや、もしかしたら、砂浜でカラカラかなんかを踊ると、甲羅がいい具合にこすれて気持ちいいのかもしれない。もし、砂浜でカラカラを踊っているカメをみかけたら、まあ、背中がかゆいと考えて間違いない。(ちなみに、カラだっけ、カラカラだっけ?カラカラってドイツの温泉のことだったか←ほく、行ったことがあるんやでえ)

つまり、そういうことだから、一冊の本を書こうと思うと、何度も何度も読み直したり書き直しているうちに、あきてしまうし、「こんなこと価値があるんだろうか」と思うようになるから、途中で放棄した原稿が山のようにある。小さな哲学の懸賞論文で受賞したときは、読み直さないで提出した。途中、冗談を書いた部分があって、審査の先生から、「ここは削除してください」といわれてムッとしたが、賞金ほしさに、「はいはい」と削っちゃった。 しかし、このままではいかん、本を一冊か二冊くらいはモノさなければいかん、ともう20年くらい考えているんだけど、遅々として原稿が進まない。というより、いっぱい書いてぽいぽい捨てている。企画はたくさんあるんだけど。

友人は、やんわりと口あたりよくぼくを非難する。「君は口先ばかりで何もしない男だ」チッ、今に見ておれ。
 という駄文をなぜぼくが書いているかというと、これからぼくは自分の書いた原稿のゲラを校正しなければいけなからです。
 このゲラは、人権について書かれたもので、内容はいいんだが、カラカラを踊りたくなる(カラだっけ。なんていっていると、内容もカラに思えてくる)。