2012年08月31日(金)

案外知られていない性の話

数日前に、中年男二人で(一人が僕)、江ノ島の水族館にいった。中年男が二人で水族館に行くのは傍目にはかなり気味の悪い光景だったかもしれない。

重そうな黒かばんをもった二人の中年男が水族館で、まぐろの周遊をじっと見つめていたら、爆弾を仕掛けようとするテロリストじゃないだろうか、と考えるのが一般的なんじゃないか。ぼくだったらそう考える。

が、彼とは、墓地巡り、美術館巡り、博物館巡りをしているので、僕らとしては、まぐろの周遊もイルカの曲芸も別に不気味じゃない。ちなみに、水族館はぼくの趣味だが、墓地巡りは僕の趣味じゃない。
 水族館のあと、飲み屋とコーヒー屋でかなり長い間議論して、驚いたことがある。彼は弁護士なのだが、ゲイ、レズビアンは環境によってつくられるものであると確信していたのです。
 

男同士、女の同士の結婚

つまり、ゲイ、レズビアン、バイセクシャル、トランス・ベスタイト(男性の女装志向、女性の男装志向)、トランス・ジェンダー(性同一性障害)は、生得的なものではなく、後天的に身につけていくもの、あるいは精神疾患の一種と考えていた。
 ぼくが、中年男二人の水族館見物を「かなり気味の悪い光景」といったのは、ゲイセクシャルに対して差別的な表現なのだが、日本では、まだ基本的な理解が十分されていない。
 とはいえ、欧米では差別されていないのか、というと、日本以上にかなり激しい。法的には、多くの国、州で、男性同士、女性同士の結婚(準結婚)が認められていて(ライフパートナーシップ法)、財産分けなどは、家族として法的に守られている。
 レズビアン同士の婚姻の後、他人の精子をもらって、嫡出子として子どもを産み育てて家族を営むことを法的に保証している国、州が少なくない。
 日本ではその場合、非嫡出子になる。僕のような独身男は、「嫡出子か非嫡出子かは、法律的な相違でしかないからどっちでもいいじゃん」と思うけど、嫡出子へのこだわりは母親になってみないとわからないのだろう。同じ意味で、ゲイでもレズビアンでも愛し合っていれば、法的に結婚するかどうかなんて意味ないと思うけど、このライフパートナーシップ法はどの国でも当事者たちに歓迎された。
 

レズビアンカップルの子ども

で、「レズビアン、ゲイ同士の家族で育った子どもの気持ちはどうなんだ」という研究が欧米ではぼつぼつ出ている。
 実際、レズビアンカップルに育てられた子どもが書いた研究書も米国にある。米国では、ゲイカップル、レズビアンカップルを親にもつ子どもがすでに成長している。面白いのは、子どもたちは、それぞれコミュニティをつくっていることだ。つまり、「ゲイカップル、レズビアンカップルを親にもつ子どもの会」というのがあちこちにある。

ゲイカップル、レズビアンカップルの子どもが、ゲイ、レズビアンになるのは、ふつうの異性愛者(ヘテロ)のカップルの子どもがゲイ、レズビアンになるのと同じ確率なんだそうだ。当たり前ですね。ゲイ、レズビアンは先天的なのだから。
 つまり、レズビアン、ゲイカップルの子どものほとんどはヘテロのわけです。レズビアンやゲイなど「性的な少数派」(性的マイノリティ)を総称してLGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランス・ジェンダー)というが、これらの家庭で育った子どもは、そのこと自体で心を病むことはないと諸研究では報告している。問題は、周囲から差別を受ける可能性が高くなることだ。

つまり、母が二人、父が二人ということになると、それだけでいじめの原因になりやすい。

LGBT家族の子どもを苦しめているのは、周囲の無理解と差別、ということになる。

 

ゲイはセイウチほど珍しくない

う~ん、何だか、カタカナ語が多くて、目がチカチカしてきた。話題を変えて、数年前にヒットした映画の『ミルク』の話をします。ミルクは、ゲイ差別と戦うために上院議員になったゲイで、結局、ゲイを守る法律をつくることによって、自分で予想していたように暗殺されてしまう。
 それにしても、日本人からみると、暗殺までしなくてもいいじゃないかと思うけど、ゲイ、レズビアンに対する欧米人の憎悪の激しさはものすごい。だから、逆に権利獲得の運動も1960年代後半から激しく燃えさかるようになり、この両者の戦いは、宗教戦争のようで日本人にはわかりにくい。

実際、宗教戦争の様相もあるのだ。というのは、聖書の中ではっきり禁じられている。旧約のレビ記では、彼らに「死を与えるべき」という記述まであり、未だにキリスト教原理主義のめんめんの中には、このレビ記を引用する人がいる(新約聖書でもパウロが禁じている)。もっともレビ記は、モーセ五書の一つで、ユダヤ教、イスラム教と共通するから、ユダヤ教、イスラム教でもホモ・セクシャルはかなり厳しく禁じられている。イスラム圏では、見つかれば死刑にする国もあったような気がする。さすがにキリスト教では、牧師や神父の中にも、「でへへ、実は・・・」とカミングアウトする人も数多く出ており、そういう人を慕って集まる信者も少なくない(別にゲイやレズビアンばかりではない)。何しろ、どの学校や会社でも1割は性的マイノリティがいるといわれているから、オットセイやセイウチほど珍しくないのだ。

が、世界のホモ・セクシャルは世界三大宗教を敵に回して戦ってきたわけだから宗教戦争的な意味合いもなくはない。


日本では生ぬるい差別環境
 日本はどちらかというと、ゲイに対して緩やかな文化をもっていた。織田信長はバイセクシャルだったようだし、日本の僧院ではゲイ文化はかなり華やかだったらしい。森鴎外も、『イタ・セクスアリス』の中で、明治時代の男性寮では、若い男はつけねらわれるのがふつうだったと書いている。
 欧米人はゲイを激しく憎んだからこそ、ホモ・セクシャル集団は、その戦いに「人権」思想を持って挑んだのだろう。ホモ・セクシャルへの憎悪を「ホモ・フォビア」というが、ホモ・フォビアは、欧米、イスラム圏では宗教的な価値観、文化を基礎にしている。日本人のホモ・フォビアは、明治時代以降に欧米から持ち込まれた知識、価値観を下敷きにしているのではないだろうか。

日本のように、せいぜい「気味悪~い」「新宿二丁目に一杯のみに行こうぜ」といった生ぬるい差別環境では、権利擁護のための壮絶な戦いは起こりにくいのかもしれない(デモや差別への抗議はさまざまな場面で起こっているが)。そのせいか性的マイノリティの人権問題は、当事者以外はあまり興味を持たれない。それが当事者にはますます厳しい差別環境をつくっている。
 ちなみに、トランス・ベスタイトを描いた『キンキー・ブーツ』はとてもユーモラスなイギリス映画で、イギリスの田舎だって、日本と同じなんだ、と思わせて興味深かい。