2013年06月17日(月)

認知症介護は、愛の実践そのものではないか

ルカ22章26節「しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」

愛も死も身近なもの

ぼくは記者として、在宅医療を実践する何人かの医師に同行して、一年以上にわたって末期がんの方を大勢取材させてもらったことがあります。取材後に医師に連絡をとると、「あの方は、今朝亡くなられた」とか「一週間前に亡くなった」という答えが返ってきます。
末期がんのかたというと暗いイメージがあります。ただ、ぼくが取材したかたのほとんどは、病院を退院され、がんであることを告知されてから数週間以上たち、本人の希望で在宅に戻られたかたや、ホスピスに入られたかたですので、少し雰囲気が異なります。

そういう方々が寝ている部屋は、「病室」ではありません。病院ではないし、たとえ体が起きない状態でも、そのかたにとっては生活の場であり、自分の心の城です。医師も「患者」とは呼ばずに、上野さん、雪恵さんというふうに固有名詞で呼びます。日常を生きているふつうの人間であって、医療の主人公ですから、痛みさえうまくコントロールできていたら、むしろ明るいといってもいいくらいです。「あと一週間ももたない」といわれている人が、医師や家族と楽しそうに談笑している光景は珍しいものではありません。病院で亡くなる方でも、濃厚医療、延命医療を受けていない場合は同じです。末期がんの方といえども、生きるということは自分を表現することであると思います。家族、医師、看護師、介護士らと冗談をいったりして笑いあったりしているのです。

エッセイストとしても有名な鳥取の徳永進医師は、「がん患者はいっしょに笑ってナンボ」というのが医療コンセプトのようです。患者を訪問しながら家族や本人と笑いを共有します。たとえば、徳永医師は、一人暮らしの患者さんの部屋にどんどん入っていって、おだんごの包みを発見すると、挨拶もそこそこに、「これはオレにかい?これうまいんだよな」といってだんごの包みをひょいと持ち上げたりします。
寝たきりの一人暮らしの女性は、笑いながら「まだ何もいってねえよ」といって、掛け合い漫才みたいな会話を交わします。徳永医師の戦術なんですね。自分を道化師にして相手に何かいわせて笑わせる。末期がんの方を訪問する医師というのは、痛みのコントロール以外それほどやることはないのです。でも痛みのコントロールが難しい(痛みのほかむくみ、かゆみ、嘔気などいろいろあるが)。笑わせるというのは鎮痛効果や免疫力を高めるだけではなく、現在の自分の状況を受容するという意味でも非常に高度な医療テクニックです。医療者のもっとも重要な役割は、本人と家族を励まし、希望をもってもらうことといわれます。

徳永医師が、ある認知症のがん末期のおばあちゃんのところに行くと、「オレはこのおばあちゃんが大好きなんだ」といいます。おばあちゃんは、機嫌がいいと、「今日は祭りだ、喰ってけ、飲んでけと威勢よくいいます。自分から何もいわないときは、徳永医師のほうから、「今日は祭りじゃないのかい」と水を向けます。すると彼女は、「そうよ、祭りだ、喰ってけ、飲んでけ」と得意そうにいうわけです。徳永医師はそれぞれの家で笑いのツボを仕掛けているのです。もちろん医師自身もそれを楽しんでいるようです。徳永医師は、毎日死に行く人と交流しながら、自らに寛容の精神を養っているのを感じます。ソクラテス的にいうと、「魂のケア」ですね。自分の魂をケアしている。

あるホスピス病棟の音楽療法士から聞いたキリスト教徒の最期も印象的でした。
その方は、かなり暗い雰囲気でホスピス病棟に入院されたのですが、音楽療法士がときどき病室に行って話をしたり、賛美歌をいっしょに歌ううちに、次第に表情が和んできたそうです。そして最後の二週間は、音楽療法士と賛美歌を歌いながら自分の前夜式、告別式で歌う曲を選んだそうです。歌や音楽の心身への健康効果は、医学的に証明されています。
音楽療法士が亡くなる数日前にその方の病室に行くと、「決めたわ」といって、明るい表情で賛美歌の番号を教えてくれたそうです。自分の告別式の様子を思い浮かべながら、神様と対話をしていたのでしょうか。人間は死ぬ前までいろいろやることがあるようです。

末期がんの患者といっしょにボランティアを募ってドジョウ取りにいった医師もいます。その患者さんは、寝たきりで、多少認知症があり、ベッドではほとんど口をきかなかったのですが、ドジョウ取りの現場では、とつぜん医師やボランティアに指図をはじめ、食事の席では、「えー、今日はお日柄もよく・・・」と演説をはじめそうになったといいます。驚いたことに、行きがけは抱きかかえられながら車に乗ったのですが、帰りはベッドまで自分の足で歩いたといいます。人間というのは不思議な生き物です。
そのほか、ぼくは直接取材していないのですが、末期がん患者と富士山やエベレストに登った医師とか川柳を楽しむ医師などもいます。でもそんなことをしない無愛想な医師でも結構患者や家族に愛されているようです。死に行く人にとって、医師は大切なパートナーであり、かけがえない同士です。医師と患者は互いに心のケアをしているのだと思います。

介護保険の理念をみなさんはご存じでしょうか。
一般の人はあまり知らないと思います。介護保険法でうたわれている介護理念とは、「食事などの日常生活を支える」というものではなく、「その人の尊厳と自立を支える」です。
尊厳と自立を支えることはとても難しいことです。というのは、多くの場合、相手は、認知症の方であったり、食事や排泄が自力ではできない方です。それらの方にとっての尊厳と自立とは何かを考えるところから医療、介護ははじまります。ケアされる側からいえば、死の直前まで、自分自身の尊厳と自立を保つ必要があるということです。これは双方にとって哲学ですね。医療や介護の仕事は、それらを受ける側とともに哲学を実践しています。

では、相手の尊厳と自立を支えるにはどうすればいいのか。
介護のテキストには、「ご本人や介護する家族に生きがいをもってもらうこと」とあります。生きる価値や目的を意識してもらうという意味ですね。このことは日本の数種類ある介護テキストだけではなく、世界保健機関が提唱する「国際生活分類」(ICF)の考え方の基本であり、認知症ケアでいわれるパーソンセンタード・ケアの方法論です。

認知症の人に生きがいをもってもらう、末期がんの人に「生きる目的をもってもらうというのは、逆説的といえるかもしれません。でも、「末期がんの人にはもう生きる目的はもうない」と考えるのはおこがましいことです。「今を大切にしよう」とよくいわれますが、末期がんの人、認知症の人には「今」しかありません。ですから、「今を大切にしよう」という意味をもっとも知り抜いている人たちでもあるのです。

ある末期がんの方の「お話ボランティア」をされている方から聞いたのですが、末期がんの方と話すとき、「タブー無し」を原則にしているそうです。「こんなことをいったら、失礼にあたる」「気の毒だ」といって、話す内容を制限しないという意味です。たとえば、残り数週間といわれる患者さんと花の話で盛り上がったら、「ここは桜の名所で、来年の春にはこの辺一帯は桜がとても美しいですよ」などという話をします。「私は来年まで生きられない」といって怒る人はいないといいます。信頼関係があってこそなのですが、むしろ、同情したり、「かわいそう」と思うこと自体がその人の尊厳、自立をそこなう態度ではないでしょうか。

介護保険では、「人を愛せよ」といういいかたはもちろんしません。むしろ、介護職は、相手に感情移入してはいけない、と厳しくいわれます。しかし、介護の理念は、ある意味で具体的な愛の実践といえないでしょうか。介護現場の人は悩んでいます。相手に愛情を感じることなく、その人の生きる意味・目的をいっしょに探り、その人のもっている力を引き出すことができるでしょうか。逆にいえば、愛なしにそれができるとしたら、愛とはいったい何でしょうか。

人を愛するというのは、いうまでもなく遺伝子にプログラムされているような、本能的なものではありません。人間の愛は大脳皮質が働く理性的なものです。介護は、その人自身に生きがいをもってもらい、その人の力を引き出すことです。ふだんの愛の実践もこのようなものといえないでしょうか。お互いに、相手が、その人らしさを発揮できるような関係こそ愛ではないでしょうか。

キリスト教は愛の宗教といわれますが、「隣人愛」はとても難しい実践です。でも、身近な人を愛するということもそんなに簡単なことではないと思います。人間と人間が互いに安らぎを覚える関係が愛というのであれば、介護の基本理念のように、互いに互いの心を輝かせることといえないでしょうか。互いの尊厳と自立を認め合い、確かめ合う「魂のケア」こそ愛といえないでしょうか。

認知症の介護の場合でも、徘徊や不穏(そわそわ、不安、興奮など)、暴言・暴力といったBPSD(周辺症状)をおさえるには、その人の得意なことをしてもらい、自信をもってもらうことが重要です。ところが多くの場合は、それとは反対に、認知症の人に対して叱ったり、間違いを訂正したり、禁止したり、命令したり、ときにはののしったり、たたいたりしてしまう。とくに家族介護ではそうなりやすい。これこそ愛情のなせるわざともいえます。でも、認知症の人にそれをしたら、その対抗手段として、BPSDをますます激しくして、介護が不可能な状態にまで追い込まれてしまうのです。まるで鏡です。こちらの心が荒れると、相手の心も荒れるのです。認知症のケアこそ、自分の心をケアしなければ前に進むことができないのです。

今日の聖書箇所で、イエスは、「しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」といっています。自分を高みに運ぼうとしようとすればするほど、相手を立てて、その人らしさを発揮してもらうという意味であると思います。単に仕えるだけではなく、相手からその人のたまものを引き出すことがケアです。それによって、自分自身が高められる、それは愛と呼ぶにふさわしいものではないでしょうか。ケアとは愛の実践ではないかと思うのです。

付録 認知症の予防

●野菜を中心に食べる。海草、きのこ類を含めなるべく多くの種類をとる。
●魚はなるべく毎日食べる(シラス干しはカルシウムもあり常備したい)。青背魚(さば、いわし、さんまなど)はとくにDHC、EPAが豊富なので意識してとる。肉も必要。
●天ぷら、かつなどの揚げ物は週1、2回以下に抑えたい。揚げ油は一度だけ使う。脂肪酸は血流をよどませたり、体を酸性に傾け(活性酸素を増やし)、遺伝子変異を起こしやすくする。オリーブオイル、あまに油、しそ油、えごま油などはコレステロールを減らす効果があるが、長期保存はせず、冷蔵庫などに保存し3ヶ月以内に消費する。
●塩分控えめの味に慣れる。塩味は、慣れれば酢、コショウ、ハーブなどで代替できる。
運動
●できれば1日20分以上歩きたい。
●何でもいいからときどき体を動かす。背伸び、腰回し、深呼吸(呼吸筋)、首回し、腕回し、手首回し・・・動かせる筋肉は何でも動かす。時間を決めて習慣化する(ex.寝起き、就寝時、歯磨き時、食事前後etc.)。筋肉は約600あり、動かさない筋肉から弱体化していく。各関節を意識的に大きく動かすと効率的に多くの筋肉を動かすことができる。筋肉は血液を循環させるポンプ運動をしているので、筋量減少は血液循環を阻害する。
●運動して筋肉を動かすと、筋肉が中枢神経(脳、脊髄)に働いて、認知症予防、うつ病の予防・緩解に効果がある。
そのほか
●よく眠る、よく笑う、泣くのもいい。
●よい人間関係をつくり、よく遊ぶ。
●趣味は脳と体にいい。
●記憶力、計算力は鍛えられるし、認知症予防効果がある(エビデンスあり)