マタイ9章9〜13節 神様のたべもの
①軽蔑され、ひとりぼっちのマタイ
「収税人のマタイは、誰からも軽蔑され、嫌われ、ひとりぼっちでした。「友達がほしい。こんな仕事はいやだ」と毎日思いながら金勘定をしていました。収税所の外を通る人は、みんな口をゆがめて、つばを吐いて通ります。
なぜなら、収税人は、嫌われ者だったからですというのは、貧しいユダヤ人からも厳しくお金を取り上げ、それを裕福なローマ帝国の代官に渡す仕事でしたから。
ユダヤはローマ帝国の植民地にされ、民族の誇りを奪われていたのです。収税人はローマ人の手下とみなされ、罪人のようにあつかわれていました。そのうえ、収税人の多くは、税金の一部をこっそり自分のものにしていたので、なおさら収税人は嫌われ者でした。マタイは父親から家業をつぎ、いやいや仕事をしていたようです。
②声をかけられるマタイ
あるとき、人品骨柄のすばらしい、優しそうな人がマタイの事務所に来ました。そして、まるで昔から親しかった友達のように、「私といっしょに来なさい」といいました。ひとりぼっちのマタイは驚きました。そんな優しい言葉をかけられたことがなかったからです。その人はイエスでした。
③立ち上がるマタイ
イエスに声をかけられたマタイは飛び上がるように立ち上がりました。もう何も考えることはありませんでした。マタイはすぐイエスに従うことにしました。
④イエス、マタイの家で食事をする
イエスは、マタイの家で食事をしました。マタイが招いたのでしょうか。それとも、イエスがマタイの家に来て、「みんなを呼んで食事をしよう」といったのでしょうか。
マタイの家に大勢の貧しい人、収税人、罪人たちが集まりました。「罪人といっても、そのころ、病気の人は、その人や先祖が犯した罪で病気になったと考えられていたから罪人と同じでした。また、安息日(サバス、今の日曜日)に仕事をする人も罪人でした。厳しい律法を貧しさゆえに守れない人たちはすべて罪人とされました。お金がなくて身を売る女性も罪人でした。収税人も罪人のように扱われていました。
罪人は、「汚れた者ですから、ふつうの人ととはいっしょに食事ができません。罪人と食事をすることも律法違反=罪とされました。しかし、人々から無視され、軽蔑され、見捨てられた人々とイエスはいっしょに食卓を囲んだのです。
⑤ファリサイ人怒る
この様子をみて怒ったのはファリサイ人でした。ファリサイ人とは、聖書を民衆に教えている人です。いずれも神様の教えを厳格に守っている人たちです。
たとえば「安息日は、何歩以上歩いてはいけない」とか「夫は妻をいつでも離婚してもいい」とか「重い罪を犯した人は、(たとえ貧しくて罪をおかさなければ食べていけなかった人でも)石を投げて殺していい」などといった教えを守り、人々に教えていました。ですから、「罪人」「汚れた人」といっしょに食事をするなんてもってのほかでした。
「おまえたちの先生は、罪人や収税人などといっしょに食事をするのか」と、イエスの弟子を非難しました。
⑥医者は病人をみる
それに対してイエスは、このファリサイ人に3つのことをいいます。それはファリサイ人の信仰に対する問いかけでもありました。
一つ目は、
「医者は病人をみるのであって、健康な人をみることはない」でした。
イエスは、医者でもありました。多くの人の病気をみて、いやしました。ですから、イエスがいっしょにいる人は、困っている人たちでした。当時、ほとんどの人が、生活に困り、明日の食べ物にもことかく人が大勢いたのです。もちろん病気になっても医師にみてもらえる人は少なかったはずです。それどころか、病気になると、「おまえの犯した罪のせいだ」といって批判されます。イエスは、罪を許し、その人々の心の友になりました。
⑦神様は人々の優しさを食べ物としている
イエスのいった2つ目のことは、「神様は、いけにえを喜ぶのではなく、憐れみを喜ぶ」です。
神様は、供え物の羊肉とか、鳩などを喜んでいるのではなく、人々の優しい心を喜ぶ、と聖書に書いてあるといいます。これを学べ、とファリサイ人にさとします。神様の食べ物は、肉ではなくて、優しい心です。
⑧罪人のためにやってきた
最後に、イエスはいいます。
「私は、恵まれた人を招くためではなく、罪人をまねくために来た」。
当時の法律書とは、神様の言葉である聖書でした。でも、神様の言葉を貧しさゆえに守れない人がいました。当時の罪人は、殺人や盗みを犯す人だけではなく、多くは病気などで自立して生活するのが難しく、貧しく、みんなから馬鹿にされ、盗まなければ食べられない人、身体を売らないと生きていけない女性など、苦しい思いをさせられて生きている人のことでした。
イエスは、そういう人の友となるために、私はやってきたといいます。