2011年12月09日(金)

温泉カッパになった思い出

むかし学生のとき、2月に友達と長野市内の温泉に行ったとき、宿のパンフレットをみて、夜中に露天風呂に入ったことがあります。今のような露天風呂ブームの前で、露天風呂がもの珍しかったときです。

パンフレットには載っているけど外は真っ暗で、ちょっとへんだなと思ったのですが、寒いので、宿から漏れるかすかな明かりをたよりにばたばたと走って、暖かそうな湯気が出ている岩風呂に、どぼん。

どうも露天は露天だったけど、長い間使われていないようで、掃除もまったくしておらず、落ち葉が湯面にも底にも堆積していて、落ち葉のジュース、魔女のスープといった感じ。ドロリとした感触。気持ちいいような悪いような・・・(たぶん、ふつう悪い)。

僕の友人はさっと出て、裸で内湯に駆けだしたけど、僕は、どうせ入っちゃったんだし、周囲は雪明かりで風情がないでもなかったからしばらく浸かっていた。

すると、宿屋に駆け込んだ友人が、緑色の体を凍えさせながら(緑色かどうかそのときはわからなかったんだけど)、走ってもどってきた。

「たいへんだ。内湯の栓が抜かれていて湯がない」

僕らは全身べとべとの緑色だから浴衣を着ることができない。で、裸で、旅館に駆け戻ると、湯の入っている風呂場を探してうろうろしたのです。寒いというより、こんなところで人に会ったらまずい。裸なのもまずいが、緑色なのはもっとまずい。誰だって、夜中に緑色の人間に廊下でばったり会うのはいやなはずだ。新種のカッパみたいだ。

まあ、温泉宿だったから、女湯でまだお湯が残っていたところがあって、とりあえず緑色を落としてから風呂に入って、カッパ状態から抜け出した。夜中の1時くらいだったかな。女性が入ってきたら、カッパじゃすまないところだけど、2月なので客はなく、仲居さんも寝静まっていた。

裸文化ゲレンデ

翌朝、川縁にある別の露天風呂に入ったところ、脱衣所は男女別だけど、中は混浴で、あとから若い女性のグループが入ってきました。僕らはそちらのほうを見ないようにして(心はクギづけだったが)、川面を見ていました。すると、僕らの真後ろで、彼女たちの一人が「きゃあっ」と叫ぶのです。僕も友人も振り返っていいものか、しかし、もし若い女性に何らかの命の危険があった場合、やはり、すぐに助けに行くべきであろうという正義感とかあれやこれやで、パッ振り返った。延髄反射というやつかもしれない(正義感はどこにいった?)。

その瞬間、その若い女性は、「冷たッ、こんなところから水が出ている」といったのです。僕らは、すぐに頭を元にもどした。見てはいけないものを見たという罪の意識と、あまりよく見えなかったという不満が交錯したが、混浴の緊張感というのは味わったような気がします。

ドイツには、公園などの片隅に「裸文化の領域」というのがあって、そこでは誰でも裸になれます。無防備状態で互いにリラックスしようという意味だと思うけど、ちょっと緊張感のある解放感があります。僕のように、胸板の厚さがピーターラビットなみだとなかなか裸になる気になれないけど、ドイツ人はその点、平気で太鼓腹をさらしています。人は公衆の面前で裸になりたいという本能がどこかに潜んでいるのかもしれない。大昔、サルであった記憶かもしれません。温泉というのは、その本能を満たすことができます。

古代ローマでも、江戸時代の日本でも、イスラム圏の低温サウナでも、風呂は同じく社交場で、裸であるという解放感は、人間関係の緊張を溶かし、コミュニケーションをうながす力をもっているようです。なかなか人間は裸になれませんから。うがったみかただけど、茶室もある意味で、人間の心が解放されて素直になれるところらしい。

ドイツ語の「裸文化」は、直訳すると、「自由な肉体の文化」(Freie Koerper Kultur)で、何が文化かというと、そこにある種の一期一会みたいな共同体を想定しているのかもしれません。

(小平慎一)