第17回: 人権は鍋の味
第17回 |
人権は鍋の味
「ジンケン」って超退屈な話題です。太宰治の小説で、終戦直後の食べ物のない時代、汽車の中で隣の人が、太宰の子どもにオニギリを差し出しながら、「ジンケン」という言葉を使ったので、太宰はギャフンとします。でも、終戦直後、ジンケンはオニギリみたいに身近で新鮮な響きだったと思います。
憲法を一言でいうと、「人権をどう守るか」です。国民主権も、戦争放棄も、国際貢献もジンケンの問題です。でもジンケンって何のことでしょうか。教科書には、人間が生まれながらにもつ権利とあります。それって昼のカレーの具みたいに身近な問題です。
確かに、健康で生活が安定している人にとってジンケンは問題になりません。ジンケンが問題になるのは、いわゆる「社会的弱者」です。じゃ、社会的弱者って誰?ということになると、「明日の我が身」なのです。
今日、健康な人が、明日、事故や脳卒中で、車いすを使うようになるかもしれません。何の落ち度もないのに、事故で「障害者」になる人は年間数千人います。
パーキンソン病や、認知症、がんなどの病気も、「私は絶対にならない」というわけにはいきません。たとえ自分がならなくても、家族がなるかもしれません。
ジンケンって、今晩の鍋の中身みたいに、ふと立ち止まって考えるテーマではないでしょうか。中米のある国では、小学生が「遊び場を壊さないで」と、憲法で政府を訴えて勝訴した例があり、「憲法は活用するものだ」と主張する人もいます。
憲法を持ち出すまでもなく、車いすの人や、白杖をもった視覚障害の人を駅や街でみかけたら、「お手伝いしますか」と一声かけるのは、ジンケン尊重の精神です。しかも、しばし会話も楽しめますし、小さな「善意」をお互いにゼリーのように味わうこともできます。
ジンケンって、「してあげるもの」ではなく、お互いの心を支え合い、寄せ合うことだと思います。白菜鍋みたいに。