第2回: 不安、ゆううつ、でも幸せなゴッホ
第2回 |
不安、ゆううつ、でも幸せなゴッホ
ゴッホは、日本でもっとも人気のある画家の一人です。生涯に一枚しか絵が売れず、非業の画家ともいわれ、画商に勤める4歳下の弟テオの仕送りに頼って暮らしていました。絵はほとんど独学で、ごくわずかな仲間内から評価される程度で、下宿屋の主人からさえまともな画家として扱われませんでした。そのなかで、ひたむきに自分流の画法を極めようとしました。弟テオへの多数の手紙が残されていて、不安と自虐、迷い、悲しみの中に、自信と創造の喜びが、淡々と、切々と述べられ、ゴッホの誠実さ、純朴さが伝わってきます。
もともとオランダで、父親と同じ牧師を目指したのですが、早くから挫折し、画商をしているうちに、20歳を過ぎてから、貧しい民衆を描く画家を志すようになります。
画商のテオに絵を納めるかわりに、テオの給料から毎月そこそこの生活費を受け取るのですが、絵が売れるようになるという保証はまったくありません。当時の画壇は、政府が支援するアングル流のアカデミズムが全盛で、マネ、セザンヌ、ルノワール、モネといった印象派の巨匠たちの絵さえ滅多に売れません。
印象派は革新派の画家の集まりですが、決して一枚岩ではありませんでした。ゴッホが33歳のとき、あこがれのセザンヌにはじめて会い、ボロボロにいわれます。相当にこたえたようですが、孤独な画業の研鑽を続けます。
ゴッホ33歳といえば、この年、パリで印象派グループが共同して展覧会を開きますが、仲間割れを起こして空中分解します(ゴッホは出展せず)。面白いことに、日本の明治洋画壇を確立する黒田清輝は、法律を学ぶためにパリに留学していたのですが、このころ「落ちこぼれ」の印象派の絵に感銘を受けて、超エリートの法律家修行をやめて画家へ転身します。
ゴッホは、晩年の3年ほど、地中海に近いアルルに移り、精神疾患と闘いながら、もっともゴッホらしいといわれる実り豊かな作品を次々に仕上げていきます。
しかし、テオがパリで家庭を持つと、兄への仕送りはテオ一家の生活を圧迫します。そのことが37歳のゴッホをピストル自殺(未遂から衰弱死)へと追い込む一因になります。ゴッホが亡くなった半年後、弟テオも妻子を残して病死します。
まったく無意味な問いかけですが、ゴッホって幸せな男だったといえないでしょうか。