2012年09月03日(月)

人権とマナーの違い

介助者は忍者のように

 カトリック女性のRさんは、車いすを使っているので、教会でも何かと特別扱いされる。先日は、教会での集合写真の際に、強く抵抗したのに中央の席に座らされたことが悲しかったという。

 ぼくは、10年以上前、重度の脳性麻痺で、車いすユーザーの女性を取材したときのことを思い出した。ぼくは医療福祉の記者だから、車いすユーザーは、めがねをかけた人くらい自然だった。

 ところが同行したカメラマンが彼女を撮影しようとすると、彼女は、介助についていた女性を振り返って「入らないで」と頼んで、アングルの外に出てもらった。彼女にはかなり強い言語障がいがあって、なかなかうまく自分を表現できないんだけど、20歳でとても陽気でおしゃれな女性だった。ぼくはもともと彼女の知り合いだったんだけど、この微妙な心理をぼくのほうから察知すべきで、ぼくが介助者にアングルから出てもらうべきだった。
 いうまでもなく、彼女自身が、自分の生活の主役であり、介助者は黒子に過ぎない。それなのに、素顔の彼女を取材しているつもりのぼくが、「介助されている彼女」をわざわざ被写体にしようと思うのは、ぼくの「やらせ」意識がそうさせていた。 

「微妙な心理」といったけど、この心理は、もっと主張しなければ他人にはわからないものだ。ぼくとしては、雑誌で、「重度障害のある人の日常生活の断面には、こういう黒子役が必要だ」といいたかったし、「障害のある女性の生活のひとこま」としてそれが自然な紹介の仕方だと考えていた。
 でも、彼女はそうは思わなかった。「あなたは、私を取材しに来たんでしょう?だったら介助者は必要ないのよ。私は私。なんで介助者がいっしょでなければいけないの?」

 その気持ちってなかなか周囲の人に理解してもらえない。周囲の人はみんな善意なんだから。介助者だって多くはボランティアだし、報酬はあってもわずかな場合が多い。善意に囲まれた「我」って主張するのが難しい。
 彼女にとって介助者は非常に重要な存在なんだけど、「介助者にケアされている私が、ほんとうの私じゃない」「わたしの肉体は弱いけど、私の心は介助されて いない」という気持ちだったと思う。それなのに、介助者つきの彼女を撮影しようとするのは、彼女の人格を独立したものとして認めていない証拠なんじゃないか。この齟齬をいち早く理解したのは、黒子である介助者の女性で、聞きづらい彼女の言葉を一瞬で理解してさっとアングルから出て行った。

 でも、ぼくは彼女の心を理解するのに少し時間がかかった。マスコミとしての僕は、「彼女には24時間介助が必要で、それを支える人々の働きだって、十分に立派なんだから被写体にしてもいいじゃないか」と思っていた。
 しかし、介助者は黒子に徹する。それは介護保険でも同じだ。介助者は忍者のような存在であるべきなのだ。もっとも忍者は世界的なブームらしく、昼の日中に黒装束で町なかにあらわれるくらい派手だから、むしろ透明人間かもしれない。もちろん倫理的な判断もしない。犯罪やいのちに危険がある場合だけ、「それをしてはだめ」と止めに入る。たとえば、車いすの男性が女の子のスカートをめくろうとしても、「よせ」というべきじゃない(ぼくならもっとやれと思うけど、それも口にしていけない)。 
 

それって親切ですかね

だからRさんの気持ちももっと大切にされていいと思うし、もっと理解される必要があるんだと思う。その意味では日本は後進国だ。車いすの人を電車の中でみかけると、 好奇の視線を投げる人がまだいるし、車いすに乗っているだけで同情したり、やたらに親切にしたり、逆に関わらないように冷たくほっておいたりする。

 たとえば、車いすユーザーがふうふういいながら坂を上っていても、誰も手伝わないとか、エレベーターに乗ろうとしても、車いすの場所を空けてあげないとか、盲人がホームのすみを歩いていても誰も声をかけない、とか。

 それでいて、親切となると、不必要にチヤホヤする。本人の手が届くのに、高いところにあるものを取るとか、盲人の腕をぐいぐい引っ張るとか(そんなことされたら誰でも不安で怖い)。

 別に「日本人だから」と日本人論をぶつつもりはないけれど、親切をするにしてもマナーが必要なのだ。マナーといっても簡単なことで、「何かお手伝いすることがありますか」と相手の意向を尋ねるだけでいい。日本人には、こちらが提示した親切を断られると、「人がせっかく親切にいっているのに」と逆ギレする人がいて油断できない。捨てゼリフだけではなく、しぐさやとっておきの不親切さで不快感を表現する人もいる。親切をしているのか喧嘩を売っているのかわからない。

イギリス人は人権感覚に乏しいか

 要するに、個人の尊厳を日常的に重んじる習慣がないからそういうことになる。親切心が先行して、相手の意思と尊厳を重んじていない。親切をするときは、だいいちに相手の尊厳を重んじることだ。善悪とは関係ない。親切とは、人間関係を円滑にするためのマナーだ。

 人権尊重なんていうとおおげさだけど、実は人権というのは電車の中やトイレの中でだって尊重するべきことじゃないだろうか。

「人権って、そんな安手の特売セールみたいなものなのか」といわれそうだけど、じゃあ、人権って庶民の手の届かないところにあるものなのか。

 ふつう人権というのは憲 法のなかでしかお目にかからない。どの国も人権は看板メニューで、とんかつ屋のヒレカツ定食みたいなものだ。人権をかかげていない憲法なんかないと思うが、それにしては「人権って何だ」という、ソモソモ論は学校でも教えないし、教師もよくわからない(ぼくは教師であったこともあるから自信をもっていえる)。自分で考えるしかないものだ。

 人権はどの国でも憲法の看板メニューといったが、イスラム圏ではそうではない。まず憲法がない。憲法の代わりにコーランがある。そういう国の大統領は、「人権」といわれると苦虫 をかみつぶしたようないやな顔をする。人権なんて神の前では「へ」でもないのだ。ちなみに人権をあらわす英語は、human rightsで、直訳すると「人間の正義」ということになり、「神様の正義」に対する挑戦ともいえそうな言葉だ。

 「人権って何だろう」と考えていると、人間としての尊厳を重んじることだから、それって日常的にはマナーのことじゃないかとふと思う。マナーというのは相手の尊厳を守ることだ。

 ということは、いや、待 て、待て・・・人権というのは、「人のいのちは地球より重い」というアレじゃないか。が、マナーというのは、「トイレに行ったら手を洗え」というアレだ。 ちょっと違うんじゃないか。イギリス人もドイツ人も、国民性として人口の半分くらいはトイレで手を洗わないが、じゃ、彼らは人権感覚が乏しいのか。

 「人のいのちは地球より重い」なんてわけのわからないことをいっているから、戦争も徴兵制も基地問題もなくならない。人権、人権と叫んでいる国が、武器を売りさばき、戦争をしかけて人殺しに専念している。

 人権ってもっと身近にしなきゃだめなんじゃないか。軍隊のないコスタリカでは、子どもが何かを禁じた自治体に対して、人権裁判を起こして勝訴したというケースもある(すみません。内容を忘れましたが新聞などで紹介されたことがあります)。

 人権が、人間としての尊厳を重んじることだとしたら、たとえば、電車の中で、人を押しのけるのはマナー違反であるが、同時に、他人の尊厳を重んじた態度とはいえないから人権無視というべきだろう。

 マナーコンサルタントと話しをしていて、マナーって何?と話し合っているうちに、マナーとは、「あなたのことを大切に思っている」というメッセージだ、ということになった。

 これってなかなかいい定義じゃないかな。

 そう考えると、マナーの対象は不特定多数だから、世の中の人はみんな私にとって大切な存在ということになる。これって「共助」である介護保険や医療保険の根幹の思想でもある。このセンスがないと、「おれは元気なのに医療保険を払うのは不公平だ」ということになる。

誰も大事にしていない生活

 で、数日前の体験だけど、ぼくはあやうく自転車にひかれそうになった。中学生くらいの女の子が携帯電話をしながら、ぼくの目の前に自転車ごとあらわれた。自転車の車輪がぼくの靴の上に乗っていた。ぼくは一瞬何のことかわからなかった。彼女はぼくのほうにむかって、「すみません」といってそのまま電話をしながら消えてしまった。 消えながら、ケケケと不気味な笑い声をたてたのは、電話の相手に事情を説明しているときなんだろう。

 この少女はマナー違反だし、ぼくは被害者というべきなんだけど、ぼくはものすごく反省してしまった。この少女に何もいわないで、黙って消え去るままにしてしまったぼくもマナー違反じゃないか。ぼくはこの少女を大切に思っていない。というより、まったく無関心で、ぼく自身にけががないことだけをよしとした。たとえば、「気をつけなさい」「ばかやろう」「かぼちゃ頭!」でも何でもいいから一言いうのがマナーというべきなんじゃないか。

 そういえば、ぼくは、昔は、たばこを吸っている高校生を叱ったり、歩道にものを捨てる同世代の男を叱っていた。いつの間にか何もいわなくなっている。東京の下町に住んでいるときは、無灯火で自転車を走らせるおじさんに、「前を見ろ!」と怒鳴られたことがあった。自転車が近づくのに気づかなかったからだが、それは反対だろうと思ってムッとしたがやはり何もいわなかった。「おまえこそ、電気をつけろ!」と怒鳴り返すのがマナーというもんじゃないか。「かぼちゃ頭!」でもいいかもしれない。まあ、何も喧嘩腰になることはないから、「電気をつけてください!」といえばいい。こういうとき、とっさに言葉が出てこない。イギリス人なら何か ウィットで言い返すんだろう。チャーチルなら何というだろう。「おまえ、潜水艦の艦長に向いているぞ」とか。

 アパシー症候群というのがあって、以前は、誰に対しても無関心な若者の特徴としていわれたのだけど、ぼくも十分、アパシー症候群です。「マナーをもっと街なかへ」という意識が必要なんでしょうね。