2011年11月28日(月)

1990年プラハの旅

●ぼったくられのプラハの旅
 
20年前にプラハに行ったときのことを思い出した。前年に社会主義政権が崩れて、街は平和だけど、ちょっと無政府状態のような、政治が機能していないときだった。 



ホテルも店も国営なんだか私営なんだかわからない状態で、今でも結構そうらしいけど、よくソデノシタを払わせられた。僕はガイドブックは行った先で買うものだと思っていたから、プラハについてから国営出版社の立派な英語版ガイドブックを買った。ガイドブックを買う前に、すでにタクシー運転手にはぼられ、ホテルの宿泊係にはぼったくられていた。



もっともガイドブックを買ってからもぼったくられは続き、第一、カフカの記念の地を歩こうと思っていたのに、ガイドブックにはカフカのカの字もなかった。ドイツで買っておいたプラハのガイドブックを頼りに、カフカの家や墓地や散歩コースを回った。カフカのいたアパートに忍び込んで、管理人のおばさんに追い出されたりした。



ちょうと5月のメーデーの休みで、チェコ人(スロバキア人もいただろうが)以外にも、ドイツ人がやたらに多く、ホテルはどこも満杯で、国営の旅行会社に午後1時に着いたときは、窓口のおばさんは、「何しにきた」という顔をしている。まさか、今頃、部屋がほしいというんじゃないだろうな、あーん、という感じ。そんな感じだ、と僕はいった。

ふん、じゃあ、探してやるか、めんどうだね、自分で探せばいいんだよ・・・おっ、いいのが空いている、ここしか空いてない、文句はないだろうね、という暗黙の会話とほんとうの会話のはてに、プラハ中心部から50キロ離れたところに部屋をみつけてくれた。



いいかい、よく聞くんだよ、ふにゃふにゃふにゃから、地下鉄にのって、へにゃへにゃへにゃでバスに乗り換えて、ほにゃほにゃほにゃで下りるんだよ。なんと便利なことにバス停の前がホテルだ。いいかい、わかったね。じゃね。

メモもくれない。ホテルのパンフレットもない。必死でメモをとって、僕は何十回も人に道を聞きながらホテルに向かった。おかげで、乗り換え駅は20年後の今でも覚えている。フチコバだ。到着した街はメルニックといったような気がする。ソ連軍の戦車が街の真ん中にどーんと置いてあって趣味の悪い街だ。

まあソ連軍の戦車は、ソ連の置きみやげで、チェコ人にとっても趣味の悪い記念品なんだろう。戦車のプレートには、「ソ連軍は、ここから、翌日、プラハ解放の戦闘に向かって出発した」とか何とか書いてあった。お金がないから、ありあわせの戦車を記念においていったか、帰りがけに壊れたからおいていったんだろう。今はもう撤去したでしょうね。

僕はその街から1キロ離れたホテルに泊まった。カーテンをあけると、すぐ近くに工場があって、煙突から黒い煙がもくもく出ている。誰がなんでこんなところにホテルをつくったんだろう。

おまけに僕はそこで風邪を引いて熱を出した。どうもプラハを歩いているときから調子が悪かった。翌朝、ホテルのフロントにふらふら下りていって、そこにいる女性に、「風邪薬はないか」と聞くと、「1キロ先の街に行けば薬屋がある」と丁寧に教えてくれた。「ここにはないのか」と食い下がる僕。「バスで行けばすぐよ。1時間に1本出ているわよ」と僕の風邪に完全に無関心な彼女。「熱があるんだけどね」とあわれっぽく訴える僕。「今晩は泊まる部屋はないわよ」とさらなるカウンターパンチを食らわす彼女。



僕はすぐにでも出て行きたいところだが体に力が入らない。そのうえプラハにもどっても、どのホテルも部屋がないと断られたから、同じことになったら大変だ。仕方ないから、1万円くらいのドルを現地通貨に換えてもらうことにした。レートはご自由に、といったら、たちまち、「部屋はある」という返事。

「部屋はある」どころか、客なんてほとんどいない。僕みたいにプラハからこぼれてきた外国人観光客がどの階にも一組いるかいないかくらいだ。僕はとにかくこの殺風景なホテルに4,5日滞在した。そして、毎朝、同じ会話を繰り返して換金し、その日の宿を確保した。



レセプショニストはすべて女性で毎朝替わる。僕は毎朝1万円くらい現地通貨を換えたから、お金を使ってもいないのに現地通貨が手元に一杯になった。



メルニックだったかメルドックだかの街の戦車を見学してから、ようやくプラハに戻り、またカフカの旅を続けた。バーツラフ広場にあるホテル・ヨーロッパにもワイロを出して泊まった。19世紀にできたこのホテルは、内装はリッパだが部屋に風呂がなく、フロントに行ってフロアに一つある風呂のかぎを借りる。ところが風呂のかぎは壊れていて、いつ絶世の美女が入ってきて、ギャーっと叫ばれるかハラハラしながら入浴した。

このあと居酒屋で小学校の教師と出会って小学校に教えに行くのですが、またいずれ書きます。
 
●小学校教師と知り合う



社会主義政権崩壊直後のチェコ旅行で、あちこちにワイロをばらまき、チェコ人の倫理観をゆがめまくりながら(でも、その前もあともあまり変わらないから僕の責任ではない)、チェコ最後の夜に、ホテル・ヨーロッパに泊まり、もちろんここでもワイロを出し、もう、チェコなんぞ二度と来るものか、と思いながら、 夜、居酒屋に入りました。



朔太郎流にいうと、風邪気味でもあったが、ソーコーとして、ふらふらと、われ一人半地下の飲み屋に入りけり。 

でも、僕はチョーゲコで、何を食べてもうまくないチェコの塩っぱいチーズか何かをワインで胃に流し込み、それでも1時間くらいワイン一杯で本を読みながら椅子をギシギシいわせていた。

すると隣に座った若い男性2人 が僕に話しかけてきたのです。何を話したか覚えていませんが、何しろ当時、政権が倒れたばかりで新政権はまだなく、コーヒー屋でも居酒屋でも、人は寄ると触ると議論沸騰で、僕のような、どうみても日本から来た「貧しいキャピタリスト」のアジア人は、議論をふっかけやすかったのかもしれません。



僕は大学では哲学科で弁論部でしたから、議論をふっかけられると、目はパッチリ(物理的にしないのだが)、頭はすっきり(まあ、なるべくという話だが)という議論好きで、つい閉店まで彼らと話しまくった。

1人が小学校教師だった。そして、明日朝、バーツラフ広場で待ち合わせて、いっしょに学校に来て、日本のことを子どもに講義しろという。



●小学校でジェスチャーする

小学校では、ソ連という昔懐かしいおとぎの国の傀儡政権が倒れてから、何を教えてもいい無政府状態になっていた。ロシア語の教科書は教師が全員ポイ捨てしてしまい、突然、英語を教えるようになった。算数も理科も西側のものじゃなきゃ通用しなくなっていた。

ワイロばかりの国だし、政権らしい政権もロクにないのだが、不思議なことに治安はよく守られていて、子どもたちはまるで何ごともなかったように毎日学校に来てはしゃいでいる。たぶん、家では、パパはサンドイッチの袋をもって、やっぱり何事もなかったように地下鉄にゆられて会社に行くのだろう。

「革命なんてこんなもんかな」と思った。もっともチェコスロバキアの場合は「ビロード革命」といって、とくに平和のうちに政権交代が行われたことを自慢にしている。当時はそのまっただなかだった。



僕はホテル・ヨーロッパで、一晩、眠れないままに、子どもたちに何をどう教えようか戦略を練った。

朝、ヤンとバーツラフの彫像の前で待ち合わせた。ヤンはギリギリにやってきたから、僕は5月はじめのちょっと肌寒いところで15分ほど待った。

バーツラフというのは伝説の王様で、前年(1989年)の10月には、ここに数十万人の市民が集まって雄叫びをあげたのだが、今では、何だか忠犬ハチ公前みたいに、朝早くから、僕のように人待顔の男女が日をあびて、思い思いに黙って立っている。僕もさも用事ありげにチェコスロバキア人のように、あるいは犬のように立っていた。(当時、チェコスロバキアというおとぎの国があったのですね)

ヤンが来ていっしょに地下鉄に乗って小学校に向かった。静かな地下鉄の中では物珍しそうにジロジロ見られた。何となく僕もヤンもその視線を楽しんでいた。当時、プラハのラッシュ時の通勤電車に日本人の姿は珍しかったかもしれない。(といってもアジア人はいっぱいいた。でも、僕の記憶では、ジーパンをはいてアメリカナイズされているアジア人は日本人だけだったような気がする)



●なんでそんなに詳しいんだ?

学校に着くとヤンはいきなり教室に行き、いきなり出欠をとって、いきなり授業をはじめた。



僕は25人 くらいの子どもたちに紹介され、いったん教室を出た。昨日、ホテルで、日本のことをこう教えようと作戦をいろいろ考えていた。僕は、外から、ドアを開けて教室に入り直し、靴を脱ぐ。玄関はこうで、風呂はこうで、座敷はこうなっていて、座布団というものがあって、座卓があって、こう座って、こんな風に食事をする、といちおう、とにかく日本文化っぽい風景をジェスチャアと英語、それに絵を黒板に描いて説明していく。僕は学校の教師もしたことがあるけど、わからないことは絵でごまかすのが得意だ(「得意というほどのこともなかったんじゃないですか」と、僕の元生徒がいうかもしれないが、書いたものがちだ)。



だいたいシナリオ通りに一人芝居を終わらせて、さあ、日本のことを何でも質問していいよ、と僕は言った。子どもは算数の時間がつぶれただけでも大喜びしている。



質問タイム。まあ、僕の想定問答では、まず宗教の話からだな。先生、日本人はどんな宗教をもっているの?ヨシヨシ、それは僕の得意分野だ。先生、日本人はどんなものを食べるの?そりやあウナギさ、ウナギをどうやって説明しようかな。チェコ人も食べるのかな。

しかし、彼らには知性のカケラもなかった。少なくとも宗教なんてどうでもよかった。

第一問。「先生、今度、日本に世界一長い橋ができましたね。その橋の名前は何というのですか」



テメーラ、ほんとにそんなことを知りたいのか。名前を聞いてどうする?確かに、四国と岡山を結ぶ橋が最近できた。が、そんな橋の名前は知らない。が、「知らない」というのはまずいかもしれない。「お~、こいつ、ほんとに日本人か、にせもんかもしれないぜ」といわれても証明する方法がない。しかし、まあ、どうせ、何をいってもわかりゃしない。

「ホンシカキョウです」「先生、聞こえませんでした。もう一回いってください」「本四架橋!」。事業名だが、彼らにはどうだっていいことだ。試験問題には絶対でない。子どもたちはノートに「ほんしかきょう」とさくさく書いている。いやな雰囲気だ。

次!

「その橋は何メートルですか」

「約60キロ」それは僕の体重だが、それが何か?



次!

「日本の面積は?」
「チェコスロバキアとだいたい同じ」



次!

「日本には自動車メーカーは何社ありますか?」
それは答えられそうだ。が、間違った。子どもが正しい答えをいう。スズキ、ダットサン・・・何それ?知っているなら聞くな!(日野ディーゼルなんてなぜチェコの子どもが知っているんだ?)

次!

と、次々にデタラメとウソ八百を並べる

それにしても1990年のチェコスロバキアの子どもが、なぜ日本についてかくも詳しいのか。彼らはもう30歳だ。ごめんね。

●授業態度が悪い



10歳のプラハの子どもたちに、うんとウソをいったのはとても反省しています。彼らももう30歳になり、なかには日本旅行をして、「あれ、違うんじゃないか」と思っている人もいるかもしれません。



とくに全長がたった10キロしかない瀬戸大橋を60キロなどと大ボラをふいたことは慚愧(ざんき)に耐えません。でも、そんなに短いの?(僕は泳げないけど、泳ごうと思えば泳げるぐらいじゃないか)



僕が日本のことを(いろいろ想像しながら)40分くらい話しをしてから、算数の時間になりました。

僕は教室のいちばん後ろの席に座り、ヤンが黒板に数字をかきはじめた。今、手元にメモがないのでわからないのだけど、僕の授業のあと、少し休憩があって、昼まで2つくらいの科目があったのではないかと思います。

ベルが鳴らないので、ヤンが勝手に授業をやめたり、はじめたりしていたように思います。僕はその間、後ろの席でぼんやりヤンの授業を聞いたり、教室の子どもたちの様子をうかがっていました。



非常に感じが悪かったのは、僕の前の席に座っている2人の金髪の女の子が(皆好き勝手な席に座っているらしい)、ときどき僕のほうをみてゲラゲラ笑うのです。彼女たちだけではなく、教室中がときどき僕のほうをチラチラみている。



ヤンが注意するのですが、それでもやめない。僕もときどき見られていると何だか落ち着かない。とくに前の女の子は何度も僕を振り返っては笑い、足をバタバタさせている。東洋人が珍しいのだろうか。



僕は「ヤンのほうをみなさい」というつもりで、黒板のほうを指さすのだけど、全然効果がない。




●子どもは好奇心のかたまり

ようやく授業が終わって、僕がみんなにお別れをして、ヤンと教室を出ようとすると、突然、僕の前に座っていた2人の女の子が僕のほうに走り寄ってきた。

そして僕に何かいってカードを渡したのです。それは何とクラスの子どもたちの寄せ書きだった。子どもたちが授業中にチラチラ僕のほうを見ていたのは寄せ書きが回っていたからなんです。

そこにはぎっしり子どもの名前が書いてある。うれしかったな。チェコ人だったらここで、女の子のほっぺたにキスするところだけど、日本人の僕は固く握手することしかできなかった。

それから、男の子が一人、僕のところに大急ぎでやってきて何かいっている。ヤンによると、自分のノートに自分の名前を日本語で書いてほしいそうだ。チェコ語は、まあほとんどドイツ語読みすればいいから、僕は、彼の名前の横に、かたかなで彼の名前をすらすら書いた。

そのとたん、僕の前に子どもたち全員がノートを持って一列に並んだ。僕は、20数冊のノートを小脇にかかえて、まるで授業を終えた教師のように、教室をあとにした。



ほんとはヤンがちょっと職員室によって、2人で昼食に行くことになっていたのだけど、僕は職員室にいる教員全員にあいさつして、机を1つ借り、ノートの表紙に彼ら彼女らの名前を書いていった。



教員がおもしろがって僕に話しかけてくる。日本の理科の教科書を送ってほしいという教員もいました(当時、「日本の子どもは優秀」という固定観念があった。 それから、これからソ連のくびきを抜けて、ほんものの「プラハの春」がやってくるという、不安とともに希望のようなものも感じられた)。



わからない読み方はヤンに聞きながら、全部のノートに彼らの名前を書き終えた。ほかの教員とも、もっと話しをしたかったのだけど、その日の午後、ウィーン行の電車に乗ることになっていたので、ヤンの机の上にノートを置いて2人で食事に出た。



何だか民家のような食堂に入って、ビールで乾杯して、ミートボールが入っているスープ料理を食べた(当時、ふつうの民家が民宿に早変わりして現金収入を得ていたので、そこもただの民家だったのでしょうね。今もそうかな)。ヤンは月給1万5000円で、チェコの教員の給与は非常に低く、いずれは営業の仕事をしたいといっていた。



その後、ヤンとはしばらく文通をしていました。僕のウソ八百の授業はとても評判がよく、親からも反響があったそうで恐縮のいったりきたりです。その後、ヤンからは、子どもたちがテスト用紙に自分の名前を日本語で書いて困る、という手紙をもらいました。

あの子どもたちの誰かが日本に遊びに来たかな。「瀬戸大橋はたった10キロじゃん・・・」うっ、縮んじゃったんだ。何しろ20年もたったからね。
 (小平慎一)